コーチングセッションの結果、『古典を読む』ことにした

昨夜に引き続きコーチングのセッション。

コーチ役、クライアント役を入れ替えながらコーチングを練習した。

クライアント役をやっているときのテーマは今年中にやりたいことであった。

いくつかのお題が上がった中で、今日は古典を読む読書習慣をつけたいというテーマを選択した。

最終のアウトプットはつぎの土曜日朝9時に近所の県立図書館に行って『夏目漱石』借りてくるということになった。

素人同士の練習セッションでもフロー通りにやると満足いく結果がでたので面白かった。

改めて思ったのは週に一冊本を読んでも年間で約50冊、10年間でも500冊である。

死ぬまでに読める本にはとても限りがあることに改めて気づいた。

死ぬまでに読みたい本を優先順位をつけて厳選していかなければならない。

本だけでなく衣食住なども含めて『よく生きる』為にどうするかといった思考法が少し身についてきたような気がする。

今日の写真はレモン。

以前にもまだ青いレモンをアップしていたが、黄色くなってきた。

10個ほどなっているレモンの内、3個を子どもに収穫してもらった。

今日は焼肉なので、このレモンを使ってタン塩をいただく。

美味しかった。

コーチング修行

今日はコーチングのセッションを受けた。

認める力、聴く力、質問する力、フィードバックする力という基本を先週学んだ。

今週は、そのノウハウを使いながらコーチングで実際に成果を出すための技術を学ぶ。

前回は必要な情報を引き出すためのコミュニケーションの技術であり、今回はコミュニケーションの技術を用いて得た情報に対し、いかにアウトプットすればいいかという話と理解している。

12時から半日セッションでズタボロ状態だが、結果に結び付けていこう。

今日の写真は紅葉。

三重県立図書館の敷地の中で撮影した。

県庁所在地は文化系の施設が充実していてよいし、文科系の施設は庭園などの作りが充実していて雰囲気がよい。

老後の住処はこういうことも参考に決めていく。

一週間前にも同じ木を見たが、ここまで紅くなっていなかった。

冬が進んで一気に色づいて来た。

自分を許す(歎異抄?)

昨日に引き続き、『うまくいっている人の考え方』の第一項『自分を許す』に関して思うところを書く。

『自分を許す』を整理する上で、まずは『自分を許せない』がどういうことなのか考えた。

『自分を許せない』には『今の自分を許せない』と『過去の失敗を許せない』の2種類あると思った。

『今の自分を許せない』は、二日酔いで一日寝潰した時などに『俺は人間のくずだー』っと叫ぶ時の気持ちだろう。

昔の『自分を許せない』は、こちらが主だったが、一つ一つ自分の欠点を克服してきてだいぶ自分が好きになれるようになってきた。

今は、『昔の過去の自分を許せない』が主で突然フラッシュバックして『思い出し恥ずかし』状態になることが時折ある。

忘れずに思いかえすたびに二度と過ちを繰り返さないと誓うことも含めて過去の失敗が今の自分を育て続けている。

成長の糧として納得できるものはそれでいいが、それでも償えない罪というのはあるように思う。

それがあっての最後の審判、極楽と地獄なのだと思う。

そこを超えて自分を許す境地が歎異抄の『善人なおもて往生す、ましては悪人においてをや』になるのだろうか。

ここはもう少し考えてみたい。

今日の写真はアロエ。

本格的な冬に入る前に蕾が立ち上がってきた。

いつもこの季節である。

アロエの蜜はびっくりするくらい甘いのだが虫の活動が少なくなった寒い時期に花が咲くのであまり虫が集まっているイメージはない。

もともとが日本の野生種ではないせいだろう。

花が咲いたら霜よけをかけてあげないとすぐ霜焼けしてしまう。

自己基盤を見つめなおす(自分を許す)

コーチングを勉強中。

コーチングピラミッドなるものがあり、土台から自己基盤→コーチングマインド→クライアントとの信頼関係の順に積み上げていって一番上にスキルがくる。

コーチングを行うコーチはクライアントの模範となりうるよう目標達成の経験や見識を持っていることが求められるのだが、それが自己基盤になる。

また自己肯定感があり自分を好きであることも必要である。

自分で自分をどう認識しているか考えるのに『うまくいっている人の考え方』に沿って自分を考えてみる。

1.自分を許す

・ミスを気にしないことが次のミスを防ぐコツである。

重大なミスでも100%自分を許せと書いてある。

早速躓いた。

ほとんどのミスは洒落で済むが自分を許せないミスというのはあるように思う。

人を殺めてしまっても生き返らせることはできないような自分の手で取り返しが出来ないことには責任を感じたほうがいいように思う。

私も取返しのつかないミスはいくつもしていると思うが胸の痛みを感じながら二度としないように自戒しながら生きている。

人は自分に甘くえこひいきするので時折ふと思い出しては自分を苛むような状況であっても、今を幸福に楽しく生きていてめったには思い出さないという状況が自分をゆるしているということであるのならば理解できる。

その場合、100%自分を許している状況に対する解釈が異なる。

今日の写真はポドゾル土。

家から駅にむかう途中の小山を切り崩して造成中の土地である。

腐葉土などが堆積した土壌からでてきた有機酸やフルボ酸で溶けた鉄やアルミニウムなどの金属イオンがたまり酸性の強い貧栄養の土層である。

北海道や東北及び中部に多いそうだ。

家の庭も少し掘ると同じ色になる。

ここにコンポストなどを混ぜ込むと黒い土に変身するので面白いものである。

囲碁クエストを断捨離

今日の写真は囲碁クエスト。

無料の囲碁ソフトである。

対戦型のゲームで途中課金もなく時間の潰せる非常に優秀なソフトである。

9路の碁は3万局、13路の碁も1000曲を超える対局をしてきた。

9路の碁で1局5分としても2500時間費やした計算になる。

単身赴任中などここ5~6年間非常にお世話になっていた。

休日など一日やっていたこともある。

囲碁との出会いは少年ジャンプで連載されていた【ヒカルの碁】である。

ブログを書こうと思ってググったら1999年連載開始だった。

漫画でもヒット曲でも少し懐かしいと思うものは軒並み20年以上前である。

【ヒカルの碁】で興味を持ったことと義父がアマ4段の腕前で手ほどきしてくれるとのことで嗜むようになった。

しかしこのところブログを投稿する際などに自分の生活を振り返る機会が多く、時間の使い方を見直す中で、囲碁は義父などとのリアルに絞って、囲碁クエストは少し控えたほうがいいとの結論にいたった。

この半年でゴルフなど色々と断捨離してきたがまだまだ時間が足りない。

焦るのではなく幸福度があがる方向で忙しさを感じるようになっているので不満はないが、引き続き見直せるところは見直していく。

生垣をバリカン(庭は手入れをするものだ)

今日は勤労感謝の日。

戦前は新嘗祭という宮中行事の祭日で今年の収穫物を供え来年の豊作を祈る大事な日である。

昨日から二十四節気の小雪に入ったが雪のちらつく気配のない晴天だった。

日曜日にうけたコーチングセッションの修了証が送られてきてフォローセッションを終えるとコースは完全に終了である。

フォローセッションは自分がクライアントとしてコーチのセッションを受けるもので、受講前にテーマを決めておく必要がある。

将来なりたい自分像でもいいし、自分の強みのあぶり出しのいずれでいくか考慮中である。

近所のスーパーに年賀状も見に行く。

来年は寅年。

還暦後充実作戦に取り組んで一年強になる。

今年はブログなどやみくもに手掛けた一年だったが来年は集約させて焦点を絞って取り組み強化していきたい。

今日の写真は庭のツゲとイヌモチの木からなる庭の生垣である。

夏の間に伸び切ったツゲをバリカンで刈り込んだ。

3年前に越してきたときは葉っぱ一枚付いておらず枯れ木のような状態だったが土を足したり肥料をやったりでここまで復活した。

ちなみに下の写真が引越し当初である。

自然物は長い時間はかかるものの手入れの効果が実感できてうれしい。

庭は手入れをするものだ。

【石の上にも三年】か【逃げるが勝ち】か

【石の上にも三年】という言葉がある。

会社の若い人へ助言する際などによく使われる言葉で、辛抱してやり遂げることが大事だという意味である。

実際に自分の経験の中でも最初は辛くて仕方がなかったことが慣れてくると面白くなったことも多くある。

大学時代の柔道部などは最たるもので入部して一年間は嫌で嫌で仕方がなかったが結果的にはいい修行だった。

一方で【逃げるが勝ち】という言葉もある。

【うつ病】を発症して最悪の結果を迎えるくらいならとっとと逃げ出したほうがよい。

修行として耐えるべき環境と一刻もはやく逃げ出すべき環境の違いは何か考えた。

まずは睡眠時間の確保で、毎日布団に8時間は入っていることのできる環境であれば一つはクリアだろう。

睡眠時間が確保できない環境はやめたほうがよい。

次にまわりにいる人間の質も関係するだろう。

職場でも部活でも周囲にロールモデル足りうる人が誰もいない環境というのもこれからの人にはいかがなものであろうかと思う。

そして人は多少なりとも似た者同士でいるほうが良いと思う。

小学生からずっと公立で進んだが進学するごとに似たような偏差値の人たちに囲まれて金太郎飴かもしれないがそれなりに快適な環境で暮らしてきた。

良識人の集団からいきなり犯罪者の集団に入ったら気が狂いそうになるだろう。

地球を一つの巨大な生命体とみなすガイア論という考え方があるが、天敵もいるわけで多少なりとも天敵から離れたところに配置されていたい。

似たような人とつながりながら最終的には天敵までのグラデーションで人との距離のあるところに位置していたいものだ。

人の身体でも胃液が自分の身体を分解しないような隔離が大切である。

修行として続けるか否かの線引きとしてはこんなものだろうか。

今日の写真はピラカンサ。

オレンジの実がたくさんついていたので植物名を教えてくれるソフトで調べたところ、ピラカンサと出てきた。

もっと鮮やかな赤の実だと思っていたので驚いてグーグルで検索すると、トキワサンザシやタチバナモドキなどの複数の種類がピラカンサという名前で呼ばれていることがわかった。

写真の黄色い実はタチバナモドキらしい。

植物の名前も奥が深い。

コーチングセッションを受講した

今日は12:30から17:30までの長丁場でコーチングのセッションを受けた。

相手を認めて全肯定することで信頼を獲得し、うなずきなどを行いながらしっかりとクライアントの話をきいてなんでもはなしやすくする雰囲気を作る。

適格な質問をなげかけながら相手に気づきを与え、感じた事をフィードバックする。

概要はわかったが実際にやると難しい。

30分という限られた時間の中でコーチングセッションをうまくまとめる技術や、うまい質問を返すのに精いっぱいにならずにクライアントの言うことをしっかりと聞く技術など不足していることがたくさんある。

先は長いとは思うが、自分には絶対できると信じて精進し、資格取得だけでなく優秀なコーチになりたいと思う。

コーチングや森林インストラクターなどを掛け合わせていくことで世間と気持ちよく付き合えるようになっていくのかなと思う。

今日の写真はイヌモチの木。

今の借家に入った時には枯れているように見えたが肥料を足したりせっせと手入れすることで実がついた。

樹というのはわかりやすく手を入れた分だけ答えてくれるからそこがよい。

世間と自然への関わり(当事者と観察者)

11月20日、スポーツジムで筋トレしながら、自分の時間を脳(都市)と身体(自然)に半々ずつに配分してようと考えた。

脳(都市)は世間と言い換えても良い。

養老先生が、元いじめられっ子が書いた本を読むと人間関係のことばかりで花鳥風月の話が全く出てこない。

これでは疲れるので自然に還れとよくお話しをされている。

また配分された時間の使い道についても当事者や観察者としてのバランスもちょうどよくとればいいと思った。

当事者というのは、対象に働きかけを行い対象物に形質の変化をもたらすものと定義する。

言い換えると当事者はアウトプットであり、観察者とは次のアウトプットにつなげるためのインプットになる。

家族も含めた世間に使う時間と身体も含めた自然に使う時間を一対一にして、世間に使う時間はアウトプットを7でインプットを3、自然に使う時間はインプットを7でアウトプットを3にするくらいでちょうど良いと考えた。

新聞や書籍などに使う時間は【世間×インプット】に勘定しよう。

自然における観察者は日向ぼっこしたり海を眺めたりしている時間で、当事者は家庭菜園をしたり台風に備えたりしている時間となる。

・・・昨日は多少飲みすぎてここまで書いて寝落ちした。

毎日投稿する習慣がいったん途絶えて悔しかったが、今日から再開して頑張ろう。

今後は当事者として観察者として何をするか、何をしたいかを深く考えていきたい。

今日の写真は屋内の観葉植物の合歓木(ネムノキ)。

花がさいた。

地味でも嬉しい。

外の人と飲み会

今日は飲みに行った。
先日の伯父の法事に続いて、今月二度目の飲み会になる。
津駅西 口にある「じんけ」という居酒屋である。
ブログの写真はお店の玄関口である。
月食の月を見上げた後で店に入る。
今日の お相手は農業塾と三重県森林インストラクター支援講座で一緒になった方である。
生粋 の三重県民なので、お店はおまかせにした。
その人によるとコロナ前に5~6回お世話になった人ということである。
法事などの血族を含まない飲み会は二年ぶり になる。
このところの新型コロナ新規罹患者減少で、会社による私生活への縛りも「社 会人としての良識の範囲で行動すること」となったおかげである。
せっかくなので、意 識してオープンクエスチョンやペーシング、ミラーリングといったコーチングの技術を意識 して会話しようとした。
ついつい自分の話をしてしまった。
難しいものだ。
もともと趣味の集いで出会った人で、コーチングを意識した会話がどこ まで響いたかわからないけれど楽しく時間を過ごせた。
コーチングに時間を割こうとし ている中で、どれくらいの時間が取れるかわからないがまたの再会を約束して終了。
家 内も一昨日、職場の同僚とランチをして帰宅したとのこと。
少しずつ日常である。