はじまりはコロナ~その7(父について)~

定年後に、自分が何をやりたいのか?
自分が本当にすきなものは何か?

立てた問いの答えを探している。
その過程で、一昨日、昨日と祖父母との思い出を振り返ってきた。

本日は、父に思いを馳せる。
父は、祖父が台湾で働いていた時に生れた子供で戦前は台湾で育った。
台湾時代は楽しかったようで、当時は安かった伊勢海老をバケツ一杯買って来て、畳の部屋で競争させた話などをしていた。
旧制中学に入るか入らないかの頃に終戦を迎えて、鹿児島に引き上げてきて、鶴丸高校~鹿児島大学へと進む。
母とは鶴丸高校~鹿児島大学の同級生だった。父が一目惚れをして、毎日のように手紙を送ってきて、ほだされた母は、望まれて嫁ぐのが幸せと回りからも勧められて結婚したそうだ。

父は、国文学で大学院の博士課程まで収めた後、高校教師をしながら学術誌に論文を投稿していた。投稿した論文が目に留まって、都立大で助手などを務めた後、奈良女子大学で教鞭を取っていた。先述した三輪神社のヘビの思い出は、奈良女子大に勤務した頃のことである。

父は、妻を愛し、子を愛し、書を愛し、食を愛し、酒を愛した人だった。

不器用な愛し方をするところがあり、親子5人で歩いているときに、例えば公園の入り口にポール型の車止めがあり、子どもたちが右に左に割れて通ると怖い顔で呼び戻して、家族皆で右なら右、左ながら左に身体をそろえて通過していた。

私が北海道の大学に進学して一人暮らしを始めてから盆や正月に帰省した際、休みが明けて北海道に戻る時に「そろそろ帰る」というと「帰るんじゃない、行くと言え」と怒っていた。
北海道では、風呂なし・共同便所の昔ながらの下宿に住んでいて廊下にピンクの電話があったのだが、懐が寂しくなって無心の電話をすると、電話口で、さだまさしの「案山子」を聞かされるという罰ゲームのようなこともあった。
留年を知らせた時は、電話口で「万歳」と叫んでくれた。

姉弟妹が、大きくなっても話しが合って仲よくなるようにと、子どもたちには、同じ習い事をさせるという方針で、ピアノ・絵画・テニスなどを一緒にならっていた。
子どもたちは、今も仕事や趣味で役にたっていることも多く感謝している。

父は、単身赴任中にすっかり酒好きになって戻ってきた。
半蔵門にある大学で教鞭を取っていたが講座は週に数コマしかなく、本来、研究にあてる時間をお酒にあててしまった。
朝は子どもより遅く出て、夜は子どもより早く帰り、空いた時間で酒を飲むという生活を送った結果、56歳で身体を壊して亡くなってしまった。


私が留年して二度目の3年生の時である。
私も酒好きは、しっかりと遺伝している。

父は母のことが大好きだったので、戒名に母の名と同じ漢字がはいった時に、「お父さん、きっと喜んでるね」と姉弟で話したものだ。

思い出を掘り起こすとまだまだ出てくるが、おいおいブログにしていくことにして、今日はここで筆をおこう。

はじまりはコロナ~その6~

 昨日は祖父と祖母が台湾女学校の教師として出会い、結婚したという話をした。
今日は、祖母がなぜそもそも台湾に行ったのかという話から始める。


 祖母の父(私にとっての曽祖父)は、台湾日日新報という、当時の台湾で一番権威のあった日本語新聞で論説委員を務めた小森徳治という人物で、『明石元二郎』などの著作で名を遺す大言論人だった。

 私自身は、祖父母の部屋として使っていた和室の仏間の上にある、長押(なげし)の上に飾った遺影の中の人物であり、彼の業績も私が30歳を過ぎて、ずっと後になって知ったことである。
 そんな父にさぞ厳しく躾けられたであろう祖母は、極めて矍鑠としていて、90を過ぎてなくなる最晩年まで着物で過ごすことが多かった。

 当時、電車での移動などで見かける年配の方も少しづつ洋服を着た人が増えてくる中で、
小柄で着物を着て貴婦人然とした祖母は、必ずと言っていいほど、席を譲られていた。

 戦後、台湾から着の身着のままで引き上げてきて、食べ物に事欠く時期もあったようだが、そんなことを感じさせない気品があった。


 ユーモアも効いていて、孫たちもそれなりにしっかりと育っていたが、姉が結婚する時に
義兄に対して、「ちっともしつけていなくてごめんなさいね」と言ったり、姉が一番上の従妹に先駆けて出産する際は、従妹に向かって「先越されたね」と声を掛けたり(当時、祖母は寝たきりになっていたが)、いつになってもしっかりしない私を見て、母に向かって、『この子は何時になったら晩成するんだい?(母は良く、私がやらかす度に「この子は大器晩成ですから」』とかばってくれていた。

私の中にある都会と田舎の内、都会部分を形作ってくれた人が祖母なのだと思う。

はじまりはコロナ~その5~

「『子供のころ、自分は何が好きだったろうか』
―自然との触れ合いについて、書き連ねてきたが、家族(飼い犬、飼い猫を含む)との思い出も大切な宝物として胸に残る。

私は、父方の祖父母と同居していた。家族構成は、祖父母、父、母、姉、妹、そして私を加えた賑やかな7人家族である。

祖父は鹿児島出身、祖母は秋田出身で、明治生まれの二人は台湾で出会い、結婚した。
祖父は、台湾女学校の校長、祖母も台湾女学校に音楽教師として勤めており、知り合ったそうだ。女学生たちからは慕われていたらしく、終戦後日本に戻ってからも、たびたび祖父を囲む催しや蜂蜜など季節のものが良く贈られてきていた。

家のお墓にも彼女たちによって寄贈された【懐徳之碑】が建てられていた。当時の使用人からも慕われていたようで、【林正徳さん】という人から色々と贈り物をいただいたり、遊びに来てくれたこともあった。

祖父も台湾当時を懐かしんでいたので、母は、横浜中華街で赤く焼いた鳥を買ってきたり、ビーフンを作ったりして、祖父を喜ばせていた。

伯父や父が子どもの頃には厳しかったようだが、孫にはとてもやさしい祖父だった。

私は、祖父とお風呂に入ることが多く、道を歩いていたら馬糞を踏んじゃった的なコミカルな歌を一緒になって唄った記憶がある。
当時の大曽根から大倉山にかけては、田園風景が広がっていて、今では想像もつかないが茅葺き屋根の農家が馬を飼っていた。道に馬糞が落ちていて、うっかり馬糞を踏むというのは、現実味にあふれた光景だったのだ。

私は高度成長期の生まれで、身近な風景がどんどん様変わりしていったのを覚えている。

家の近所もどんどん住宅が建っていった。ある日、保健所の人が家にやってきて、ニワトリの鳴き声がうるさいとクレームが出ていると言われて、祖父が泣く泣く絞めていたのを覚えている。

祖父の思い出は沢山あるが、良い思い出ばかりである(家族の話を続ける)。

はじまりはコロナ~その4~

電車に乗って家族で遠出する際も、あちこちに自然が残っていたように思う。

最寄りの駅に向かう途中、綱島街道沿いにある大綱橋のたもとにある桜の木で、日の光にきらめくヤマトタマムシの色鮮やかさに目を奪われた。

曾祖母と大叔父夫婦が暮らす東京都世田谷区上野毛の家にもよく行った。
あの家は国分寺崖線(ハケ)沿いの高台に位置しており、崖線の斜面を利用した庭があり、
斜面を湧き水が流れて庭の中に小川をなしていた。
最後には多摩川に流れ込むのだが、野生なのか捕まえてきて放したのかわからないが沢蟹が棲みついていた。庭には色あざやかなトカゲ、屋内にはヤモリがいた。

近所には「最後の政商」と呼ばれた、小佐野賢二氏の邸宅があり、大叔父の家から小佐野邸に向かう坂道で、マイマイカブリやミヤマカミキリを見た。
小佐野邸は、コンクリの壁に囲まれており、監視カメラが設置されて、その向こうに覗く手の届かない静謐な場所にそびえたつブナの木にとまったオオミズアオの息をのむような美しさには目を瞠った。

夏休みには、葉山などに海水浴に連れて行ってもらうことがあり、泳ぎもせずにイワガニやスナガニ、ヤドカリを追っかけていた。

当時、父が単身赴任をしていた奈良県にも良く行った。ヘビ神様を祭る三輪神社では、お供え物の卵をシマヘビが丸呑みするシーンも見たことがある。とても興奮する体験だった。

母方の実家は鹿児島県の川辺にあり、夕食時には電灯の光を求めて、カブトムシが飛んでくるような家だった。近所の田んぼの用水路で10cm以上ある大振りのアカハライモリを捕まえたのも良い思い出だ。どの思い出も色鮮やかに映像が思い浮かぶ(次に続く)。

はじまりはコロナ~その3~

生き物の思い出はまだまだある。

 50年前は、東京や横浜にも沢山の自然が残っていた。自宅の庭だけではなく、外遊びも自然の中で多くの時間を費やした。

 大倉山には、沢山の防空壕があり、防空壕を秘密基地として山の中で遊びまわった。当時、大倉山は東急電鉄の所有だったが、自由に遊ぶことが出来て、甘い香りのアケビや甘酸っぱい野イチゴをおやつにクワガタを取ったりしていた。
 普段、野球をしていた近所の空き地には、調整池があり、トノサマガエルやザリガニが沢山いて、悪ガキはトノサマガエルのお尻に爆竹を詰め込んで破裂させたりしていたが、私は可哀そうでやらなかった。当時、ガキ大将を止めなかった自分を思い出すと今でも胸が痛むことがある。空地には、エノコログサやススキ、カゼクサなどが茂り、イナゴやバッタ、カマキリなどを捕まえて過ごした。カマキリの卵を見つけると家に持ち帰り、木組みの箱に網戸を張って作った飼育箱においておくと小さなカマキリがわらわらとわいてきて嬉しかった。
 自転車で三ッ池公園まで遠出すると、クチボソや手長エビが沢山いて、時間のたつのを忘れて釣っていた。

 当時の横浜では、光化学スモッグが問題になっていたが、山や原っぱの虫たちは、まだ豊富だったように記憶している。
環境汚染は水質の悪化のほうがひどくて、近所の鶴見川は一級河川として日本で3番目に汚い川になっていた(現在は行政や市民活動の努力でかなり改善されている)。
 その為、ゲンゴロウやタガメなどの水生昆虫が希少で、野生のミズカマキリは、50歳を過ぎて三重県の雲出川で初めてみることになる(まだ続く)。

【はじまりはコロナ~その2~】

コロナで家に閉じこもって自問自答を重ねている時、最大の関心事は、いかにすれば幸福に生きることができるか?であった。アラン、ラッセルなどの幸福論や東洋的な幸福感、最新の研究などを参考にしながら、まずは自分にとっての好きを思い出して再開すること、嫌いなことが何か考えて、取り除くことから始めた。

「『子供のころ、自分は何が好きだったろうか』―そう自問した時、真っ先に思い浮かぶのは自然、生き物とのふれあいだった。」

終戦後、台湾から引き揚げてきた祖父は、横浜に居を構えた。当時は、東急東横線沿線の分譲住宅でも100坪を超えていて、終戦後の一時期、食べ物にありつくことにもことかいた祖父は、リスク管理の視点から、食用目的も含めていろんなものを飼ったり植えたりしていた。食用以外も含めて、当時の庭・屋内は、小さな動植物園のようだった。ニワトリ、犬、猫、ハト、メジロ、亀、ヘビ、メダカ、カブトムシ、クワガタムシなど、植物では、柿、ビワ、イチジクといった果樹に加えて、ナス、トマト、ふき、むかご、ミョウガ、ひょうたん、盆栽などがあった。夏には、麦茶の代わりに庭に自生していた、少し薬臭いドクダミ茶を飲み、ヨモギを草餅にして食べるのも毎年のことであった。産み立てで、まだ温かいニワトリの卵を取りに行くのは私の仕事で、祖父と一緒に庭いじりをやったものだ。子供のころの記憶で映像として脳裏に浮かぶのは生き物であることがほとんどだ。この原体験こそが、私の幸福にかかせないものであることに気づき、再び取り戻す為の行動が始まる(次に続く)

【はじまりはコロナ~その1~】

2019年末に新型コロナウイルスが発見されて以降、あれよあれよという間にパンデミックになり、2020年4月には日本でも緊急事態宣言がなされて、県をまたぐ移動が実質、禁止された。2023年5月に新型コロナが5類になるまでは、何等かの形でずっといろんなことを自粛していたと記憶している。新型コロナウイルスの騒動の最中、私は転職して、三重県の会社に勤めていたのだが、もともとは神奈川の人間であり、三重県には地縁も血縁もなかった。幸いにも、2年間の単身赴任生活を終えて、家族を三重に呼び寄せた後のコロナ騒動ではあったが、高齢の母の住む横浜の実家、学生時代や前職の友人たちとの交流など、自分が大切にしてきたことが全て不要不急扱いされてしまった。勤めている会社は、食品製造業で、社会の維持に不可欠な「エッセンシャルワーカー」とされたものの、事務職の私は、テレワークで家に閉じこもることになった。私生活のありとあらゆることが不要不急とされる中、私にとって何が必要火急なのか、いい年齢をして自分探しが始まった。

自分自身に対して問いかけを行い、自分の気持ちに気づく為の技術を欲しいと思って、コーチングスクール(Zoom)を受講して、コーチ資格を取得した。

セルフコーチングやコーチ仲間と相互セッションを行い、図書館では様々な幸福論の書籍を借りてくるなどして、自分の価値観、心情を探っていく旅がはじまった。

定年再雇用後の日々(~移住までの道のり)

2026年02月に60歳になり、定年を迎えた。

再雇用契約を結んだ為、翌日以降も今まで通り出社するとは言え、まあ一区切りである。

会社で花束を貰い、家族と回転すしに行った。賑やかな喧噪の中で、家族と交わした乾杯の味は格別であった。

仕事の内容はあまり変わらないが、情報発信は新しい上司にやってもらうなど裏方にポジションをとるなどして、人生の比重を個人の生活の充実に少しづつ移していこう。

受験生や大学時代に柔道部で主将を務めあげて引退する時などと同じく、自分で自分をほめてあげたい節目が一つ増えた。この年齢まで健康で幸福に勤め上げることが出来て何よりだった。家にいても仕事のことをよく考えていたが、これから勤務時間外は忘れようと決心する。65歳で会社員生活を終えた後の理想的な生活をイメージしながら、自分の幸福を最大化するべく、日々の暮らしを再デザインして、その時に向けて今できる準備を着実にすすめていく。

すみたい場所、やりたいことなど、ブログ記事を書く過程で自問自答しながら、幸福な老後に到達する為の行動を追求していきたい。

寄付考

https://happylife-happynature.com

大学時代は柔道部に所属していた。
現役部員のための寄付の依頼があったので郵便局にいって一万円ほど振り込んできた。
今の自分を育ててくれた過去に対する感謝を込めて、OBとして寄付するという形になる。
ふと気になって過去に行ってきた寄付を思い起こすと、一番初めは、赤い羽根共同募金でお小遣いから10円程度寄付して羽根をもらって胸にさしていたと記憶している。
時間軸でいうと、もう読まなくなった子供向けの本などの物品をまだ使ってくれるようバザーなどに寄付していたことが次に来る。
他には、ユネスコ主催の絵画コンクールで賞をもらって表彰を受けに会場にいった時に100円くらいなのだろうが寄付したところ、今でも毎年実家に寄付の依頼が送られてくる。
郵送代ではるかに足が出ているのであろうと思うと申し訳ないことである。
その後はWWFジャパンの野生動物保護や海外も含めた阪神淡路や東日本大震災など大きな天災の被災地へのお小遣い程度の寄付になる。
ふるさと納税も寄付の一種だろう。
私利私欲の色が強いが一応北海道など過去お世話になった縁のある場所を選ぶようにはしている。
その後も買い物ついでに出た小銭を募金箱に入れることがあったが、預け入れの有料化などで小売りですら小銭をもてあましはじめたのか少しずつ寄付金箱が減っているように感じる。
今後は未来への思いを込めて千円札程度のまとまった形で寄付が出来ればと思うが、寄付を必要とする人、場所、モノというのは多々あってどちらにしたものかという迷いは生じる。
価値観の問われるところである。
農薬などの影響で、昆虫が猛烈に減っていてるらしく、この30年間で75%減ったというデータがある。
昆虫がそれだけ減ると生態系が壊滅的なダメージを受けて人類滅亡の危機になりそうな恐れもあると思うので、そこに見合った寄付先がないか探してみようと思う。

「受け入れる」と「甘やかす」

「受け入れる」と「甘やかす」

家内がエステサロンでパートを始めた。

娘のチアダンス仲間の母親がエステサロンを経営していて誘われたそうだ。

私の周りには公務員やサラリーマンが多く個人事業主というのはよく知らなかったのだが独自のコミュニティがあるようだ。

仲間内で経済を回し合う感じで、知り合いの食堂や美容院などをお試しして気に入れば常連になる感じだ。

開店○周年などの店のイベントでは採算度外視?でキッチンカーが来たりして盛り上げている。

家内が務めている店でもイベントがあったので顔を出した。

ロコモコ丼を昼食にして、安く売っている小物を見ていると、よく当たると評判らしい占い師さんがいたので見てもらった。

四柱推命と姓名判断を合わせた感じで名前と生年月日を書いて占ってもらった。

ここから数年は良い運気とのことでよかった。

より一層、飛躍するためには対人関係にあたって「型にはめず」に「受け入れる」ように言われた。

言われた通りに素直に受け入れるつもりだが、何でも「受け入れ」てしまうと、「甘やかす」になってしまいはしないかと考えてしまう。

カウンセリングでもコーチングでもまずは傾聴して受け入れてから始まる。

コーチングを受けようという人は、自分を磨きたい人がは多く自分に厳しめなことが多いがそうでない人もいる。

結論のでないまま今日は投げ出してしまうが、「何でも受け入れ」と「甘やかし」の違いを整理する必要を感じた。

しばらく考えてみる。