
定年後に、自分が何をやりたいのか?
自分が本当にすきなものは何か?
立てた問いの答えを探している。
その過程で、一昨日、昨日と祖父母との思い出を振り返ってきた。
本日は、父に思いを馳せる。
父は、祖父が台湾で働いていた時に生れた子供で戦前は台湾で育った。
台湾時代は楽しかったようで、当時は安かった伊勢海老をバケツ一杯買って来て、畳の部屋で競争させた話などをしていた。
旧制中学に入るか入らないかの頃に終戦を迎えて、鹿児島に引き上げてきて、鶴丸高校~鹿児島大学へと進む。
母とは鶴丸高校~鹿児島大学の同級生だった。父が一目惚れをして、毎日のように手紙を送ってきて、ほだされた母は、望まれて嫁ぐのが幸せと回りからも勧められて結婚したそうだ。
父は、国文学で大学院の博士課程まで収めた後、高校教師をしながら学術誌に論文を投稿していた。投稿した論文が目に留まって、都立大で助手などを務めた後、奈良女子大学で教鞭を取っていた。先述した三輪神社のヘビの思い出は、奈良女子大に勤務した頃のことである。
父は、妻を愛し、子を愛し、書を愛し、食を愛し、酒を愛した人だった。
不器用な愛し方をするところがあり、親子5人で歩いているときに、例えば公園の入り口にポール型の車止めがあり、子どもたちが右に左に割れて通ると怖い顔で呼び戻して、家族皆で右なら右、左ながら左に身体をそろえて通過していた。
私が北海道の大学に進学して一人暮らしを始めてから盆や正月に帰省した際、休みが明けて北海道に戻る時に「そろそろ帰る」というと「帰るんじゃない、行くと言え」と怒っていた。
北海道では、風呂なし・共同便所の昔ながらの下宿に住んでいて廊下にピンクの電話があったのだが、懐が寂しくなって無心の電話をすると、電話口で、さだまさしの「案山子」を聞かされるという罰ゲームのようなこともあった。
留年を知らせた時は、電話口で「万歳」と叫んでくれた。
姉弟妹が、大きくなっても話しが合って仲よくなるようにと、子どもたちには、同じ習い事をさせるという方針で、ピアノ・絵画・テニスなどを一緒にならっていた。
子どもたちは、今も仕事や趣味で役にたっていることも多く感謝している。
父は、単身赴任中にすっかり酒好きになって戻ってきた。
半蔵門にある大学で教鞭を取っていたが講座は週に数コマしかなく、本来、研究にあてる時間をお酒にあててしまった。
朝は子どもより遅く出て、夜は子どもより早く帰り、空いた時間で酒を飲むという生活を送った結果、56歳で身体を壊して亡くなってしまった。
私が留年して二度目の3年生の時である。
私も酒好きは、しっかりと遺伝している。
父は母のことが大好きだったので、戒名に母の名と同じ漢字がはいった時に、「お父さん、きっと喜んでるね」と姉弟で話したものだ。
思い出を掘り起こすとまだまだ出てくるが、おいおいブログにしていくことにして、今日はここで筆をおこう。








