
母は、鹿児島県出身で神社の神主を父に持つ、7人兄弟の下から3番目の子どもだった。
アンパンマンのほっぺたのように表情筋が持ち上がっていて、いつも笑顔が絶えない。
持ち前の明るさと優しさで、誰からも好かれる人である。
同居していた父方の祖父母からも愛されて頼られていた。祖父母への敬愛が本物であり、伝わっていたからだろう。
義理の曾祖母が亡くなった時、葬儀の際に母が大泣きしていた。
私たち姉弟は、小学校へ上がる前であり、母が泣いていることがショックで、母にすがりつきながら「お母さん、泣かないで」と大泣きして周りを困らせた記憶がある。
姉夫婦は実家から歩いて5分の距離に住み、妹夫婦は、途中から実家に同居していた。両家とも共働きで、孫たちの子育てのかなりの部分を母が担っていたと思われる。
孫たちは、当たり前のように、おばあちゃんっ子に育って、姉夫婦の子どもたちは、結婚する際の保証人を母に頼んでいた。
義父母、夫、子ども、孫たちだけでなく、ペットの世話もして、庭の植物だけでなく室内の観葉植物も元気に育って、妹は「母の愛は泉のようだね」とよく言っていた。
他人の意見を否定しない穏やかな人柄で、私がどんな失敗をしても叱られなかった。
切手の貼っていない手紙と一緒にお金を持たされて、切手を1シート購入した上で、手紙をポストに投函してくることを求められ際に、封筒の表面一杯に切手1シート分を貼り付けてしまった際も笑っていた。
家族間であっても、夕食の席などで子どもの失敗を面白おかしく話すことのない人で、母しか知らない、私がやらかした失敗が山のようにある。姉や妹、孫たちも、本人と母しか知らない、そんなエピソードが沢山あるのだろう。
叱られたことが一度だけある。近所の駄菓子屋で万引きをして捕まった時に、泣きながら、お灸を据えられた。今でも手の甲にお灸の跡が残っていて、時折、見返しては、戒めとしている。
父親が私立大学で教鞭を執るまでは、大して給料ももらっていなかった筈で、子どもの頃の食卓は、今にして思えば質素だった。
肉は鶏か豚が主で、(地鶏とはいえ)肉は鶏ガラだけの水炊きも良く食べていた。
外食もほとんどしなかった。
家族の誕生日だけは特別で、主役が望むメニューを食べることが出来た。
私の誕生日は、いつもビーフステーキか鰻だった。
妹の好物が秋刀魚の蒲焼きの缶詰で、誕生日のメニューに望むことがあり、恨めしかったことがある。
アイスは、牛乳に砂糖を入れて凍らせたものだったし、おやつは出汁を取った煮干しなどだったが、当時の家庭はどこもそんなものだったのだろう、貧乏だと思ったことは無かった。
当時住んでいた家は、漆喰が剥げてあちこち藁の混ざった土壁が見えていて、私が喜んでほじくって穴を広げるので、困った母の発案で、母と一緒に段ボールにクレパスで恐竜の絵を描いてニスを塗り、穴を隠すように貼った。
私が30歳の時に、母と二人で台湾に旅行した。
故宮博物館や龍山寺、士林夜市などの観光名所に加えて、祖父や父の思い出の地を巡ったことは良い思い出だ。
堅い匙のような道具を使う、のたうち回る痛さの足裏マッサージや蛇の生き血の入った酒(私だけ)なども楽しんだ。
台湾のホテルでは、母方の祖父母の話も沢山聞けた。当時の鹿児島と神奈川は、今よりもずっと心理的な距離が遠く、神奈川に住んでからは数えるほどしか会うことが出来ずに、寂しかっただろうと思う。
既に亡くなっていた祖父母の思い出を涙ぐみながら話していた。
人の話を聞くことが上手で、あまり自分語りをしない人だが、色んな思いを持っているのだろう。
母の思い出は、まだまだあるがおいおいブログに書くことにして、今日は筆をおこう。
90歳を過ぎた母との思い出をこれからも沢山作っていきたい。








