死ぬまでにやりたい10のこと(なぜ自然に飢えるのか)

山を買って自然の中で暮らすことに対する、飢(かつ)えるほどの欲望はどこから来るのか?

この世に生を受けた時は、全くの自然として誕生し、その後、少しずつ世間の中で生きていくために適応していく過程で、失ってきたものを取り戻したいという気持ちなのだろうと思う。

私淑してやまない養老孟司先生のおっしゃっていることそのままであるが、都市になじんでいくだけでなく、人生の重心の半分を意識でなく、身体に(自然に)おいておきたいのであろう。

意識のウェイトが高まっていく中、幼少の頃の記憶はあらがうように自然に偏っている。

小学校低学年の頃の記憶は、初めて体験した生き物の映像が眼に焼きついているものばかりである。

上野毛にあった大叔父の家には庭続きに小さな山があり沢蟹がいた。

沢の近くで見たマイマイカブリ、同じく上野毛で見たオオミズアオ、綱島の家の垣根についていたナナフシ、近所の背の高い柳の手の届かない高さにいた玉虫、鹿児島県川辺郡の母方の祖父の家に遊びに行った際に、田んぼの水路でとった20cmくらいもあるアカハライモリ、川辺の田舎の夕食中に屋内の電灯に飛びこんできたカブトムシ。

だんだんと還暦が近くなり、また自然に還りたいのだろう。

考えるだけでワクワクする。