目的を定めて進む

大学時代の先輩が地方紙の一面に載っている記事を友人がシェアしてくれた。

医学的に優れた成果を出したそうだ。

大学時代の柔道部の一つ上の先輩で私の人生で一番頭の上がらない人である。

56歳まで生きてきて一番なのだからおそらく一生一番だろう。

若い頃に一緒に仕事をした人が何人か一部上場企業の社長になっているが大学時代の当時20歳ちょっとの先輩をしのぐカリスマ性を感じた人は一人もいなかった。

私と先輩で何がそんなに違うのか改めて考えてみた。

人格的魅力の差はもちろんあるのだが公私で成果を出し続ける目的達成力の差も大きい。

はっきりとした目的を定める力、目的にむかう決断力、目的を実現する行動力などが違うのだろう。

四年制大学を卒業した後に医学部に入り直すことなどは最たるものなのだろう。

私も子供の頃は獣医になりたかったが大学で成績が足りないとすぐあきらめて再度チャレンジすることなど思いもよらなかった。

社会に出てからも、それなりに会社が求める成果は出し続けてきてはいたが自分のやりたい仕事なのか悩みながらのモラトリアム社員であった。

最近は幸福になることを目的にさだめていたが、まだまだ具体化が足りていない。

全力投球している過程があり我ながらよく頑張ったと思ったときに強い幸福を感じる性質だということはわかっている。

次はどこに向かうかといったベクトルの問題になる。

トレーニングジムにおいてあるシックスパッドも一ヶ月くらいで5段階ほど強さをあげて今はマックスの強度でやっている。

56歳でも行動していれば必要な筋肉は備わってくる。

少し頭の中で考えている目的が本当にやりたいことなのか身体を動かしながら確かめていく。

今が動き時だ。

【生きがい(IKIGAI)】が日本独自の概念とは!

【生きがい(IKIGAI)】が日本独自の概念とは知らなかった。

毎日のブログを書く際に、キーワードと言える単語はとりあえずグーグルに放り込んで言葉の定義などを確かめてから書くようにしている。

今日のテーマは生きがいに定めたので、早速グーグルで検索すると生きがいとは日本独自の概念であるという説明が目に飛び込んできた。

全く知らなかったことであり考えたこともなかったのでとてもびっくりした。

大昔から西洋哲学でも幸福論は大きなテーマになっているし人種や文化関係なく所有する感情と信じていた。

そういえば西洋の幸福論は、幸福とは休日の朝布団にくるまって二度寝している心持ちだとか、幸福になるためにはつらい時に無理にでも笑うとか、幸福な状態を定義した上で精神・身体を幸福な状態に持っていくためのテクニックを説いていることが多いように思う。

現在に着目し、将来のことは不安をもたずに備えるくらいの扱いになっているような気もする。

生きがいとは幸福な未来との関連を保ちながら現在を生きるという、幸福感以上に時間の流れに寄り添った感情なのかもしれない。

これは最後の審判で復活するときに、若いころの肉体と年配の分別を持った理想像としての自分が出てくる宗教とそうでない宗教の違いなどの影響もあるのだろうか?

今日は死ぬまでにやりたいことをもう一度整理しようと思って自分の生きがいは何か考えようとしたら、言葉の定義のところで引っかかってしまった。

それもまたよし。

(閑話休題)

今日の写真は会社の窓から見える杉山である。

本社とはいえ三重の田舎にあるので、会社から山までの距離は200mもない。

会社と山の間いは、山と平行に走る片道1車線の基幹道路と多少の住居と田畑がある。

写真からもわかるように針広混交林でない杉山なので秋の紅葉はない。

春に花粉で黄色く染まるくらいで通常は常緑の山である。

やっぱり山を散策していても遠くから眺めても針広混交林の方が癒される。

私にとっては、心の癒しという意味でも生物多様性は重要であると思う。