
昨日は祖父と祖母が台湾女学校の教師として出会い、結婚したという話をした。
今日は、祖母がなぜそもそも台湾に行ったのかという話から始める。
祖母の父(私にとっての曽祖父)は、台湾日日新報という、当時の台湾で一番権威のあった日本語新聞で論説委員を務めた小森徳治という人物で、『明石元二郎』などの著作で名を遺す大言論人だった。
私自身は、祖父母の部屋として使っていた和室の仏間の上にある、長押(なげし)の上に飾った遺影の中の人物であり、彼の業績も私が30歳を過ぎて、ずっと後になって知ったことである。
そんな父にさぞ厳しく躾けられたであろう祖母は、極めて矍鑠としていて、90を過ぎてなくなる最晩年まで着物で過ごすことが多かった。
当時、電車での移動などで見かける年配の方も少しづつ洋服を着た人が増えてくる中で、
小柄で着物を着て貴婦人然とした祖母は、必ずと言っていいほど、席を譲られていた。
戦後、台湾から着の身着のままで引き上げてきて、食べ物に事欠く時期もあったようだが、そんなことを感じさせない気品があった。
ユーモアも効いていて、孫たちもそれなりにしっかりと育っていたが、姉が結婚する時に
義兄に対して、「ちっともしつけていなくてごめんなさいね」と言ったり、姉が一番上の従妹に先駆けて出産する際は、従妹に向かって「先越されたね」と声を掛けたり(当時、祖母は寝たきりになっていたが)、いつになってもしっかりしない私を見て、母に向かって、『この子は何時になったら晩成するんだい?(母は良く、私がやらかす度に「この子は大器晩成ですから」』とかばってくれていた。
私の中にある都会と田舎の内、都会部分を形作ってくれた人が祖母なのだと思う。
