最近はSDGsの話をよく聞く。
持続可能であることを大切な目標として掲げ、過去に軽視されがちだった生物多様性も大切にしようしている。
悪くないと思うが、なぜ今までできなかったのか、これから本当に万人が大事だと思える価値観に昇華させていけるのかという視点で見たときに、若干心許ないところがあるように思う。
人類の今までの進歩を担保してきた特質などとどうしても相性が悪い感じを覚えてしまう。
特質として、本能的に生き物は生きていくのに必要なものを獲得するために、必要なものを快、不必要なものを不快と感じるように仕分けしていたように思う。
私は食品会社の研究員としての経験が長く美味しさを感じる仕組みについては勉強してきたと思う。
必要な栄養素を効率よく獲得し、毒を避けるためのセンサーとしての味覚のことは学んで来たが、視覚や触感などが自分の安全のために物事を仕分けるメカニズムはよくわかっていなかった。
味覚は比較的、複雑すぎて解析できないものは他の五感にわかせて自分は美味しいとする雑なセンサーのように思われるが、視覚はきれいやきたないで物事を分けているように思う。
視覚の分け方の初期段階はきれいと汚いという峻別があるように思う。
きれいなものは利用できるもの、汚いものは利用できないものである。
言い換えるときれいなものは純なもの、きたいなものは入り交じったものなのかもしれない。
複雑なものを精製して純度の高いものを取り出すと元素の特性を際立て活用できるようになるので使えるようになり、それはきれいと感じるのだと思う。
外で見かけるコケに手が伸びない人が多いのは、不潔と感じるからで不潔と感じるのは生命に必須な水が潤沢にあり、しっとりして見える分、その環境に虫などが多数共存していて不純に見えるためだろう。
不純を精製して純にすると価値になる。
もともと包容力があって不純を抱え込みすぎて手の伸びなかった苔が精製されて純になると癒やしばかりの価値になるのに違いない。