休日の午前中に、トレーニングジムに行く。
トレーニング中は体を鍛えるだけでなく、ちょっとした思い付きもあり、思考を深める上でも貴重な時間である。
今日は、生きる意味について考えながら筋トレに勤しんだ。
頼んで産んでもらったわけでもないが、産まれた以上は一生懸命に生きる。
ある意味、生物としての人間の生きる意味は、そこにつきるのだろう。
人としても動物としても懸命に生きる。
動物としては、恋をして子どもを持って育てて、種の繁栄に努めること、これは実現した。
人間としては、二人称の人たちを幸福にするために、一生懸命に生きる。
これにつきるのではなかろうか?
功成り名を遂げた人たちも、二人称として認識してくれる人を増やしているだけのようにも見える。
家族と将来の二人称のためにブログを書いているように思う。
その流れで、養老先生が執筆されていた内容に、思いをいたす。*生きる意味の部分も先生の受け売り。
「長嶋茂雄は個性的、個性は体に宿る」、「最近の若い人は、自分にあった仕事というけれど、身体を仕事に合わせるものだ」という二つの考えをどうつなげばよいのだろう。
与えられた仕事に、適応することがほとんどの人なのではあるが、その中で一流まではいけるということであろうか?
でも二流でもプロ野球選手にはなれないわけで、生物として生きていくための平均的な能力の範囲の中で仕事に身体を合わせればいいのか、その答えを講演会の中で、いただければと思う。