
ヤマザキマリさんのエッセイ「望遠ニッポン見聞録」を読んでいる。
世界各地で暮らし、様々な民族と触れあってきた彼女は、日本との違いや、その土地ならではの価値観を軽やかに描く。
その文章を読んでいると、気付きというのは、変化や比較対象があって、初めて生まれるものなのだと感じる。
とはいえ、比較する材料をたくさん持っているだけでは足りない。
普段の暮らしの中でも、ちょっとした変化に気付く人もいれば、まったく気付かない人もいる。
私はというと、妻や娘が髪を切っても気付いたことがない。
それでも六十年間、なんとか元気に生きてきた。
人間の五感は、同じ刺激が続くと慣れてしまう。
夜、虫の音を聞きながら眠っていても気にならないのに、ふと鳴き止むと「はっ」と目が覚めることがある。
本当かどうかはわからないが、蛙だってじっくり水温をあげていくと茹で上がるという話がある。
音楽家は音の違いに敏感で、画家は色や線のわずかな変化を見逃さない。感覚器の違いというより、脳が「何を大切な情報として見ているか」の違いなのかもしれない。
考えてみると、私は視覚も聴覚も、それほど鋭いほうではない。
自然が好きで、海や森をいつまでも眺めていられるが、それは細かな変化を見つけているというより、1/fゆらぎのような穏やかなリズムに身を委ねているからだろう。
では私のセンサーはどこに向いているのか?
思い起こせば、私の心を動かしてきたのは、いつも物語だった。
風の谷のナウシカ、司馬遼太郎や中島らもの作品、スティング、次元大介、ローマの休日、君の膵臓を食べたい・・・。
ぶれない軸を持つ人にあこがれ、どう生きるかを模索して、「あの人のようになりたい」というメンターとの差分を意識しながら、その差分を縮めるというところに、自分のセンサーは反応してきたような気がする。
福岡への移住を前に、自分のセンサーをもう一度見つめ直している。
この土地で私は何に心を動かされ、どんな人と出会い、どんなふうに変わっていくのだろう。
髪を切ったことには、これからも気付かないかもしれない。
それでも、人の心が動いた瞬間には、気付くことのできる人でありたい。
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