来年もツバメが帰ってくるために

駅から会社まで歩いて10分。

道沿いには、毎年楽しみにしているツバメの巣が5つほどある。

今年もひなの成長を見守りながら会社へ向かう。

5月の子育てを終えて、今は2回目の子育ての真っ最中である。

巣から覗くひな鳥も大きくなってきた。

子ツバメは孵化してから巣立ちまでに、1羽あたり1万匹以上の虫を食べるらしい。

目の前を十数羽の親鳥が飛び回っている。

風景に同化してしまって、人の目には見えないが、蚊やハエ、アブ、アブラムシなどが、ものすごい数で空を飛びまわっているのだろう。

時々、自転車を漕いでいてユスリカの蚊柱に突っ込んでしまうことがあるが、もしかするとあれくらいの密度で虫がいるのかもしれない。

都会では、見かけることの少なくなったツバメだが、私の住んでいる地域では、今年も元気に子育てをしている。

ほほえましい光景だが、未来のことを考えると、胸が痛むし、心配になってくる。

気になって調べてみると、調査によって幅があるものの、過去30年ほどの間に「70%〜90%近くもの昆虫が減ってしまった」という報告が見つかる。

このペースでいくと、子どもや孫の時代に、昆虫がいるから成立している、当たり前の風景が失われてしまうのではないかという危機意識がわいてくる。

農薬の使用や生息地(森や草原など)の減少、地球温暖化をはじめとする気候変動、都市部の光公害など様々な要因があるのだろう。

昆虫が減少すると、それらをエサとする鳥やカエル、そして植物の受粉(農作物の実り)にも大きな影響が及ぶ。

生態系全体のバランスは崩れ、昆虫の受粉に支えられている果物や野菜が減ると、私たちの食卓も大きく姿を変えてしまうだろう。

「私たちは祖先から地球を受け継いだのではない。未来の子どもたちから借りているのだ。」

という、ネイティブ・アメリカンに伝わる有名な言葉を思い出す。

「福岡に移住して自然と暮らす」、そんな定年後の暮らしも、虫がいて、豊かな自然があってこそだ。

虫たちが元気に生きていける環境を残すために、少しでも出来ることをやっていきたい。

・庭やベランダを「小さな生態系」にして、虫たちの「オアシス」を作る。
・「落ち葉や枯れ木」は燃えるゴミにせずに、土に漉き込む。
・農薬や除草剤は使わない。家庭菜園は、コンパニオンプランツで守ろう。
・地産地消、有機野菜の利用を心がけよう。
・苔テラリウムを通じて、自然を愛でる習慣付けに貢献しよう。

あきらめることなく、身近なところから、行動しよう。

小さな行動の先に、未来がある。

来年も帰ってくるツバメに、そんな報告をしたい。

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門をあけたらイノシシ

最近は、熊の出没ニュースをよく目にする。

札幌市中央区やJR福島駅など、「まさかあそこで」と思う場所まで熊が現れるようになった。

私の住む辺りでも、熊ではないが、イノシシやシカ、サルが目撃されることが増えている。

知人が家庭菜園をまるごと荒らされたという話も聞く。

そして今朝、私も思いがけない出来事に遭遇した。

家の門をあけて通りへ出ると、5mほど先に4頭のイノシシがいた。

縞が消えかけたウリボウよりは少し上といった感じの子イノシシである。

「いやだなぁ、目が合っちゃったよ!」最初の感想である。

当然、近くに親イノシシがいると思って、警戒モードに入って辺りを見回す。

互いの目線が切れたタイミングで、子イノシシは逃げて行った。

親は、その先で待っているのかも知れない。

私の家は、県庁から徒歩10分程度の高台で、災害にも強く、生活には便利と評価の高い場所にある。

完全な生活圏内で、目撃したのは初めてだ。

人と動物の間を区切っていた里山が荒れるなどして、境界線があいまいになってきている。

妻にお願いして、自治会で獣害対策を担当している副会長さんに連絡を入れてもらい、私はそのまま出勤した。

九州には熊はいないが、移住候補先の福津市も住宅地周辺でイノシシの目撃情報があるようだ。

都市開発が進んでいった時代とは異なり、これからの人口減少の時代は、野生動物との距離感を図りながら暮らしていくのだろう。

人が山を知り、動物も人里に近づきすぎない。

そんな程よい距離感を探りながら暮らせる社会であってほしい。

これからの時代、人と野生動物が共に暮らすための新しい距離感を、私たちは考えていく必要があるのだろう。

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10年目のあぜ道

現在住んでいる家には、10年前に越してきた。

歩いて15分ほどのところにマックスバリュがあり、土日など時間にゆとりのある時は、散歩がてら歩いていくことが多い。

マックスバリュの目の前には田んぼがあり、買い物客が田んぼのあぜ道を通って帰っていく姿が目に入った。

私も買い物を済ませた後で、同じ道を通って帰ったところ、思いがけず、家のすぐ近くまで田んぼや山裾に沿った道で帰れることがわかった。

田んぼの上を麦わらとんぼが群れをなして飛んでいた。
陽光を受けて、ひとつひとつが小さな光の粒のようにきらめいていた。

よい散歩コースが見つかった。少しアンテナを立てると10年住んでも新しい発見がある。

これからも好奇心を持って、あちこちキョロキョロしながら散歩してみようと思う。

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狩猟免許の講習会に行ってきたよ!

2月に60歳を迎えて、3月から定年再雇用で働いている。

65歳手前までは、引き続いて現在の会社に勤務する予定だが、遅くとも65歳には、福岡に移住する計画を立てている。

65歳からの第二の人生を、より充実したものにするべく、ここからの5年間は、会社員生活のかたわらの準備期間と位置づけている。

65歳からは、家庭菜園や釣りなどを生活に組み込んでできる限り自給自足的な生活を送りつつ、30年を超える食品会社の技術職としての経験を活かして、6次産業化プロデューサーになりたいと考えている。

自給自足の比率を上げるにしろ、6次産業化プロデューサーになるにしろ、狩猟ができると、大きなアドバンテージになると考えて、狩猟免許を取ってみようかと思い立った。

狩猟免許試験に備えた、事前講習会を大日本猟友会が主催していたので申し込んだ。

(妻は動物性タンパク質の自給自足は釣りがいいんじゃない派ではあるが)

今日は、講習会の日だった。

よくニュースにもなるが、猟師は全国的に高齢化がすすんで不足しており、国も合格者を増したいと思っているせいか、合格率97%の合格率を担保する、親切な試験対策中心の講習だった。

学ぶことは多く、日本に生息する鳥獣類の内、狩猟鳥獣は46種類であること、その種名など初めて学んだ。

自然が好きといいながら、外観で種類の分からない鳥獣が沢山いるという事実にも気付いた。今後に活かしたい。

日本にいる全ての鳥獣を全て知っている自分になったら、どんなに幸せなことだろうと思った。

実技試験対策もあって、箱罠のセッティングを練習した。

ロックを外して、セットバーを押し下げて、上下というより左右に引っ掛けて、ロックを戻して、プレートを掲げる。
*写真撮影不可で試験当日の備えとして、備忘録的に記載する。

充実した一日だった。

8月の本試験に向けて準備していく。

#苔テラリウム #福津市 #福岡移住 #土と緑の暮らし#心のやすらぎ#ライフスタイル

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私の必要火急

新型コロナ下で、私の大切にしている、沢山のことが不要不急扱いになってしまった。

私にとっての必要火急は、いったい何なのかをはっきりさせるべく、最初の取り組みとして、自分の好きな人、好きなもの、好きな事をあげることから始めて昨日まで書き連ねてきた。

その結果として、自然のある暮らしが大好きで自然の近くに身を置くこと、大切な家族と共に過ごす日々が大好きで、過去の思い出(幸福な記憶)を積み上げてきたように、これからも妻や子供たちとの幸福な記憶を積み上げていくこと、周りの皆が幸福になるよう貢献すること、これらのことが私にとって必要不可欠のことなのだとわかった。

また幸福を幸福として感じることのできる、丈夫な心を維持する為に、60歳以降は「嫌なことはしない」、「自分のことは自分で決める」、「今、現在を懸命に生きる(目の前のことに没頭する)」ことこそが、精神面における、私の必要火急なのではないかといった気づきを得た。

精神的な幸福を維持する上での土台となる、物理的な必要火急についても考えてみる。

現在、ウクライナ、パレスチナ、ホルムズ海峡、自然災害、地球温暖化など、きな臭い話題が多い。新型コロナの時にも感じたが、これからは、社会全体での分業体制の中で、会社員として自分の仕事における責任を全うしていれば、その見返りとしての衣食住を賄う為の給与や社会保障による相互扶助を得ることが難しくなってくるのではという恐れを感じる。

今までよりも小さなコミュニティの中で、より自立した(分業的でない)生き方を探っていく必要性にも思いが及んだ。(続く)

はじまりはコロナ~その9(自己超越)~

 コロナ下の自粛生活で、自分は何に幸福を感じるのか問いかけてきた。

答えを探す為の最初のアクションとして、過去の記憶を遡って自分の好きをあげることにして、ここまでに自然、家族について思い起こした。

その中で、自分の好きには、人を幸せにする利他的行為も含まれるなと気づいた。

 欲求5段階説で有名なマズローが、晩年に6段階目(自己超越)があると昇華した奴だ。
5段階(生理的欲求~自己実現の欲求)までは、自分自身の可能性を最大化する、自分の利益に関する欲求だが、6段階目(自己超越)は、世の中をよくする・他者を救うといった利他的な方向に目的が向かう。

 思い出すと幸福を感じるエピソードを一つ記す。

 2010年、中国に食品メーカーの副総経理として駐在していた。
自社の商品を【中国の人民食にしよう】と張り切っていた頃だ。
管掌範囲には品質管理部門も入っていて、部下の一人に優秀な女性の品質課長がいた。

 ある日、彼女が退職を申し出てきたので、理由を聞くと妊娠したという。
私たちの会社に転職してくる前に2度ほど流産したことがあり、大事を取りたいのだという。

 当時の中国は、まだ一人っ子政策の旗を降ろしておらず、産休日数も日本に比較して短かった。産前休暇の配分が少ないのが特徴で、15日間くらいだったように記憶している。
 社内規定は中国法に準じた形だったが、申請すれば日本並みに産前6週間を休めるように、規定を変えた。

 優秀な人材であり会社の損失という、自利的な動機もあったが、利他的な感情も色濃くあった。
彼女は退職を思いとどまり、無事に出産した。現在は、中国ホールディングスの品質保証責任者についている。着任した頃に、御礼のメールをくれた。

 自分の行動によって、人生が好転したに違いない人がいるという記憶は、思い出す度に私を幸福にしてくれる。幸福スイッチの入る思い出をくれた彼女には、感謝している。

これからの人生も、人を幸福にするという経験を一つでも多く積み上げたい。

はじまりはコロナ~その8(母について)~

母は、鹿児島県出身で神社の神主を父に持つ、7人兄弟の下から3番目の子どもだった。
アンパンマンのほっぺたのように表情筋が持ち上がっていて、いつも笑顔が絶えない。
持ち前の明るさと優しさで、誰からも好かれる人である。
同居していた父方の祖父母からも愛されて頼られていた。祖父母への敬愛が本物であり、伝わっていたからだろう。

義理の曾祖母が亡くなった時、葬儀の際に母が大泣きしていた。
私たち姉弟は、小学校へ上がる前であり、母が泣いていることがショックで、母にすがりつきながら「お母さん、泣かないで」と大泣きして周りを困らせた記憶がある。

姉夫婦は実家から歩いて5分の距離に住み、妹夫婦は、途中から実家に同居していた。両家とも共働きで、孫たちの子育てのかなりの部分を母が担っていたと思われる。

孫たちは、当たり前のように、おばあちゃんっ子に育って、姉夫婦の子どもたちは、結婚する際の保証人を母に頼んでいた。
義父母、夫、子ども、孫たちだけでなく、ペットの世話もして、庭の植物だけでなく室内の観葉植物も元気に育って、妹は「母の愛は泉のようだね」とよく言っていた。

他人の意見を否定しない穏やかな人柄で、私がどんな失敗をしても叱られなかった。
切手の貼っていない手紙と一緒にお金を持たされて、切手を1シート購入した上で、手紙をポストに投函してくることを求められ際に、封筒の表面一杯に切手1シート分を貼り付けてしまった際も笑っていた。

家族間であっても、夕食の席などで子どもの失敗を面白おかしく話すことのない人で、母しか知らない、私がやらかした失敗が山のようにある。姉や妹、孫たちも、本人と母しか知らない、そんなエピソードが沢山あるのだろう。

叱られたことが一度だけある。近所の駄菓子屋で万引きをして捕まった時に、泣きながら、お灸を据えられた。今でも手の甲にお灸の跡が残っていて、時折、見返しては、戒めとしている。
父親が私立大学で教鞭を執るまでは、大して給料ももらっていなかった筈で、子どもの頃の食卓は、今にして思えば質素だった。
肉は鶏か豚が主で、(地鶏とはいえ)肉は鶏ガラだけの水炊きも良く食べていた。

外食もほとんどしなかった。
家族の誕生日だけは特別で、主役が望むメニューを食べることが出来た。
私の誕生日は、いつもビーフステーキか鰻だった。
妹の好物が秋刀魚の蒲焼きの缶詰で、誕生日のメニューに望むことがあり、恨めしかったことがある。

 アイスは、牛乳に砂糖を入れて凍らせたものだったし、おやつは出汁を取った煮干しなどだったが、当時の家庭はどこもそんなものだったのだろう、貧乏だと思ったことは無かった。

 当時住んでいた家は、漆喰が剥げてあちこち藁の混ざった土壁が見えていて、私が喜んでほじくって穴を広げるので、困った母の発案で、母と一緒に段ボールにクレパスで恐竜の絵を描いてニスを塗り、穴を隠すように貼った。

 私が30歳の時に、母と二人で台湾に旅行した。
故宮博物館や龍山寺、士林夜市などの観光名所に加えて、祖父や父の思い出の地を巡ったことは良い思い出だ。
 堅い匙のような道具を使う、のたうち回る痛さの足裏マッサージや蛇の生き血の入った酒(私だけ)なども楽しんだ。
 台湾のホテルでは、母方の祖父母の話も沢山聞けた。当時の鹿児島と神奈川は、今よりもずっと心理的な距離が遠く、神奈川に住んでからは数えるほどしか会うことが出来ずに、寂しかっただろうと思う。
既に亡くなっていた祖父母の思い出を涙ぐみながら話していた。

 人の話を聞くことが上手で、あまり自分語りをしない人だが、色んな思いを持っているのだろう。
母の思い出は、まだまだあるがおいおいブログに書くことにして、今日は筆をおこう。

90歳を過ぎた母との思い出をこれからも沢山作っていきたい。

はじまりはコロナ~その7(父について)~

定年後に、自分が何をやりたいのか?
自分が本当にすきなものは何か?

立てた問いの答えを探している。
その過程で、一昨日、昨日と祖父母との思い出を振り返ってきた。

本日は、父に思いを馳せる。
父は、祖父が台湾で働いていた時に生れた子供で戦前は台湾で育った。
台湾時代は楽しかったようで、当時は安かった伊勢海老をバケツ一杯買って来て、畳の部屋で競争させた話などをしていた。
旧制中学に入るか入らないかの頃に終戦を迎えて、鹿児島に引き上げてきて、鶴丸高校~鹿児島大学へと進む。
母とは鶴丸高校~鹿児島大学の同級生だった。父が一目惚れをして、毎日のように手紙を送ってきて、ほだされた母は、望まれて嫁ぐのが幸せと回りからも勧められて結婚したそうだ。

父は、国文学で大学院の博士課程まで収めた後、高校教師をしながら学術誌に論文を投稿していた。投稿した論文が目に留まって、都立大で助手などを務めた後、奈良女子大学で教鞭を取っていた。先述した三輪神社のヘビの思い出は、奈良女子大に勤務した頃のことである。

父は、妻を愛し、子を愛し、書を愛し、食を愛し、酒を愛した人だった。

不器用な愛し方をするところがあり、親子5人で歩いているときに、例えば公園の入り口にポール型の車止めがあり、子どもたちが右に左に割れて通ると怖い顔で呼び戻して、家族皆で右なら右、左ながら左に身体をそろえて通過していた。

私が北海道の大学に進学して一人暮らしを始めてから盆や正月に帰省した際、休みが明けて北海道に戻る時に「そろそろ帰る」というと「帰るんじゃない、行くと言え」と怒っていた。
北海道では、風呂なし・共同便所の昔ながらの下宿に住んでいて廊下にピンクの電話があったのだが、懐が寂しくなって無心の電話をすると、電話口で、さだまさしの「案山子」を聞かされるという罰ゲームのようなこともあった。
留年を知らせた時は、電話口で「万歳」と叫んでくれた。

姉弟妹が、大きくなっても話しが合って仲よくなるようにと、子どもたちには、同じ習い事をさせるという方針で、ピアノ・絵画・テニスなどを一緒にならっていた。
子どもたちは、今も仕事や趣味で役にたっていることも多く感謝している。

父は、単身赴任中にすっかり酒好きになって戻ってきた。
半蔵門にある大学で教鞭を取っていたが講座は週に数コマしかなく、本来、研究にあてる時間をお酒にあててしまった。
朝は子どもより遅く出て、夜は子どもより早く帰り、空いた時間で酒を飲むという生活を送った結果、56歳で身体を壊して亡くなってしまった。


私が留年して二度目の3年生の時である。
私も酒好きは、しっかりと遺伝している。

父は母のことが大好きだったので、戒名に母の名と同じ漢字がはいった時に、「お父さん、きっと喜んでるね」と姉弟で話したものだ。

思い出を掘り起こすとまだまだ出てくるが、おいおいブログにしていくことにして、今日はここで筆をおこう。

はじまりはコロナ~その6~

 昨日は祖父と祖母が台湾女学校の教師として出会い、結婚したという話をした。
今日は、祖母がなぜそもそも台湾に行ったのかという話から始める。


 祖母の父(私にとっての曽祖父)は、台湾日日新報という、当時の台湾で一番権威のあった日本語新聞で論説委員を務めた小森徳治という人物で、『明石元二郎』などの著作で名を遺す大言論人だった。

 私自身は、祖父母の部屋として使っていた和室の仏間の上にある、長押(なげし)の上に飾った遺影の中の人物であり、彼の業績も私が30歳を過ぎて、ずっと後になって知ったことである。
 そんな父にさぞ厳しく躾けられたであろう祖母は、極めて矍鑠としていて、90を過ぎてなくなる最晩年まで着物で過ごすことが多かった。

 当時、電車での移動などで見かける年配の方も少しづつ洋服を着た人が増えてくる中で、
小柄で着物を着て貴婦人然とした祖母は、必ずと言っていいほど、席を譲られていた。

 戦後、台湾から着の身着のままで引き上げてきて、食べ物に事欠く時期もあったようだが、そんなことを感じさせない気品があった。


 ユーモアも効いていて、孫たちもそれなりにしっかりと育っていたが、姉が結婚する時に
義兄に対して、「ちっともしつけていなくてごめんなさいね」と言ったり、姉が一番上の従妹に先駆けて出産する際は、従妹に向かって「先越されたね」と声を掛けたり(当時、祖母は寝たきりになっていたが)、いつになってもしっかりしない私を見て、母に向かって、『この子は何時になったら晩成するんだい?(母は良く、私がやらかす度に「この子は大器晩成ですから」』とかばってくれていた。

私の中にある都会と田舎の内、都会部分を形作ってくれた人が祖母なのだと思う。

はじまりはコロナ~その5~

「『子供のころ、自分は何が好きだったろうか』
―自然との触れ合いについて、書き連ねてきたが、家族(飼い犬、飼い猫を含む)との思い出も大切な宝物として胸に残る。

私は、父方の祖父母と同居していた。家族構成は、祖父母、父、母、姉、妹、そして私を加えた賑やかな7人家族である。

祖父は鹿児島出身、祖母は秋田出身で、明治生まれの二人は台湾で出会い、結婚した。
祖父は、台湾女学校の校長、祖母も台湾女学校に音楽教師として勤めており、知り合ったそうだ。女学生たちからは慕われていたらしく、終戦後日本に戻ってからも、たびたび祖父を囲む催しや蜂蜜など季節のものが良く贈られてきていた。

家のお墓にも彼女たちによって寄贈された【懐徳之碑】が建てられていた。当時の使用人からも慕われていたようで、【林正徳さん】という人から色々と贈り物をいただいたり、遊びに来てくれたこともあった。

祖父も台湾当時を懐かしんでいたので、母は、横浜中華街で赤く焼いた鳥を買ってきたり、ビーフンを作ったりして、祖父を喜ばせていた。

伯父や父が子どもの頃には厳しかったようだが、孫にはとてもやさしい祖父だった。

私は、祖父とお風呂に入ることが多く、道を歩いていたら馬糞を踏んじゃった的なコミカルな歌を一緒になって唄った記憶がある。
当時の大曽根から大倉山にかけては、田園風景が広がっていて、今では想像もつかないが茅葺き屋根の農家が馬を飼っていた。道に馬糞が落ちていて、うっかり馬糞を踏むというのは、現実味にあふれた光景だったのだ。

私は高度成長期の生まれで、身近な風景がどんどん様変わりしていったのを覚えている。

家の近所もどんどん住宅が建っていった。ある日、保健所の人が家にやってきて、ニワトリの鳴き声がうるさいとクレームが出ていると言われて、祖父が泣く泣く絞めていたのを覚えている。

祖父の思い出は沢山あるが、良い思い出ばかりである(家族の話を続ける)。